今回は、主日礼拝に参加したら、もれなく平日の集まりに誘われる特典?がついてきた時のお話。
不思議な誘い方
平日、いつものように引きこもっていた時のこと。
僕を伝道した兄弟から電話がありました。
「今度、集まりがあるので来てみませんか?きっと楽しいと思いますよ。」
すご~く棒読みでした。
教会で会った時でも独特な雰囲気だったので、元々こういう感じの人かと思いましたが、
それにしても感情が込められてないように聞こえました。
(でも本人は一生懸命だったかもしれません。。。)
「この人、ほんとに誘う気あるのかな?」
複雑な気持ちでしたが、せっかくなので行ってみようかと考えました。
それでもやっぱり、
ギリギリまで行くかどうか悩みました。
一日教会に行っただけで、人と会うことに抵抗が無くなっていたのなら、
とっくの昔に引きこもりから脱出できてたでしょうし。
だけど教会の人たちのところでなら、
自分が変わることができるかもしれないと思っていたので、
散々悩んだ末に、遅れて集まりに行くことにしました。
集まりの前にみんなで食事をするということだったのですが、
僕が行った時にはもう食事が終わり、みんな上の階に上がって集まりを始めていました。
たった一人を除いて。
忘れられない味
もしここに誰もいなかったら、
性格上、僕は寂しい気持ちになって、そのまま家に帰っていたと思います。
その兄弟は、仕事終わってから教会に来たところでした。
兄弟に促されるまま、僕は一緒に食事をすることになりました。
食事で心が開かれたのか、
自分のことを少し話せた気がします。
当時のことをその兄弟に話しても、ほとんど覚えていません。
兄弟にとってはただ一緒に食事をしただけに過ぎないのですから。
でも僕にとっては、
一人暮らしを始めてから誰かと食事することがなかったこともあり、
記憶に残る時間となっていました。
メニューが「シチュー」だったことも覚えています。
特別でも何でもない、家庭的で素朴な味。
だけど、とても美味しかったです。
戸口で待っている神様
この日を境に続けて教会に通うようになり、
一緒に食事した兄弟との聖書勉強も始まりました。
たまに兄弟姉妹と聖書勉強や分かち合いをすることもありました。
その中で、ある姉妹がこの御言葉を教えてくれました。
見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。(ヨハネの黙示録 3章20節)
「神様は○○くんが気づかなくても、ずっとそばにいてくれてたんですよ。」
当然よく分かりませんでした。
でもこの時もイエス様は戸口に立っていて、
僕が心を開くのを待っていてくれたのだと思っています。
食事を通して
一緒に食事をし、聖書勉強を教えてくれた兄弟は後に、信仰の友になりました。
教会での食事は、僕の寂しかった心に、
兄弟との会話を通して、料理を通して、主の愛が流れ込むきっかけになりました。
この時の出来事が、数年後に僕が料理の奉仕を任せられることに繋がっていくのですが、
それはまた別のお話。
続く。